宗祖親鸞聖人のご生涯(東本願寺HPより)

誕生と回心

親鸞聖人親鸞聖人は1173(承安3)年、京都・日野の里に、藤原(日野)有範の長男としてお生まれになりました。
平安貴族の政治が終わりを告げ、源氏と平家が相争う武士の時代をむかえたころのことです。
9歳になられた時、京都・東山の青蓮院で得度された聖人は、比叡山に登り、ひたすら勉学に励まれました。
しかし、20年にわたる学びにもかかわらず、苦しみや悩みをのりこえる道を見つけることができませんでした。
聖人は出家修行に終止符を打ち、東山吉水の法然上人のもとに向かわれ、そこで「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに出遇われたのです。

法難と教化

法然上人のもとには、多くの人びとが集まりました。
しかし、古くからあった仏教教団との間に摩擦を生じ、1207(承元1)年、法然上人は土佐(高知県)に流罪となり、聖人(35歳)も越後(新潟県)に流されたのです。
流罪を機に、親鸞聖人は「愚禿釈親鸞」と名のられます。
恵信尼公と結婚し、民衆の中にあって念仏の教えを弘めていかれました。
やがて罪は許されますが、聖人は京都へ戻らず、ご家族を伴われて関東の地に向かわれます。
そして約20年にわたり、多くの人びとに念仏の教えを語り伝えられました。

帰洛と入滅

その後、聖人は60歳を過ぎてから京都へ戻られます。
このころ、約10年ほど前から書き進められていた『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を完成されたと伝えられています。
そして1262(弘長2)年11月28日、親鸞聖人は京都の地で、90年のご生涯を終えられました。
聖人のご生涯は苦難の多い道のりでしたが、法然上人との出遇いによって弥陀の本願に帰し、念仏に生かされ、浄土の真宗を顕らかにし続けられたご生涯でした。

法要について

お経を聞いていても、何のことやらさっぱりわからないと言われる方が大半だと思います。
お経は、お釈迦さまが説かれた教え(仏教)をお弟子たちが聞きとどめられ、お釈迦さまがお亡くなりになられたあとに記されたものです。
つまり、お釈迦さまの説法の内容(人間が真実に生きる道)が書かれているわけです。
ですから、法事に参列するということは、参列者一人ひとりがお釈迦さまの真実のみ教えに遇うという大事な意味があるのです。

一般的には、法事は死者への追善供養や冥福を祈る場であり、読経は供養や祈りの手段であると理解されているようですが、決してそういうわけではありません。
仏教大辞典において、「真宗の場合は他力往生が建前であるから自力の追善を必要とせず、年忌法事などを営むのはただ聞法と報謝<仏や祖師の恩に報い徳を感謝する>のためとし、 追善とはいわない」とあるように、私たちが法事をおつとめする意味は、私たち自身が救われていくという内容を持っているわけです。

年忌表年忌法要は、 百カ日(亡くなられた日を入れて百日目)、一周忌、三回忌(亡くなられて2年目)、七回忌(6年目)、十三回忌(12年目)、十七回忌(16年目)、二十三回忌(22年目)、二十七回忌(26年目)、三十三回忌(32年目)、五十回忌(49年目)などに行います。
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お焼香の作法について

ご門徒(お檀家)の方から真宗大谷派においてのお焼香作法についてのご質問をよくいただくためご紹介します。
お寺でのご法事やお葬式の際に行うお焼香は、仏教の儀式には欠くことのできないものであり、お釈迦さまのご在世当時から行われていたといわれています。
香を焚く(焼香)ということは、その薫香により、仏前を荘厳すると共に、浄らかな光明の世界(浄土)をおもいうかべる縁となります。
お焼香の手順についてですが、まず焼香の順番が回ってきましたら仏前に進み、ご本尊を仰ぎ見て、身を正し軽く頭を下げます。

次に、右手で香をつまんで、香炉の中に2回入れます。この時、香を頂くことはしません。

最後に、右手の指先で香盒(香を入れる仏具)の香の乱れを直してから、静かにお念仏(南無阿弥陀仏)を称え合掌礼拝します。 終わりましたら、もとの席に戻ります。
以上となります。
ご参考にしてください。